当研究室が担当している肉眼解剖学教育の指針
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講義のテーマ:
人体の構造を機能と関連付けて理解し,心技体にわたる医師の基盤を構築する
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到達目標:
解剖学は医学者の基盤となる学問である.学習到達目標を以下に定める
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- 人体の構造と機能と関連付けて理解し,頭の中で人体の三次元構造を構築できるようになること.
- 中枢神経系の基本的な構造と機能,主要な神経回路について理解すること.
- 医師としての心構え(使命感・倫理観・科学的思考)を培うこと.
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教育概要と計画:
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人体解剖学講義:解剖学総論・骨学・筋学・循環器系・消化器系・呼吸器系・泌尿生殖器系・内分泌系・末梢神経系など人体を機能系統別に分け,総論的な内容を中心に講義を行う
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骨学実習:体幹・上肢・下肢・頭の骨の実習
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解剖学実習:脳以外の全ての部位の肉眼解剖学実習
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神経解剖学講義:中枢神経系(脳および脊髄)各領域,脳室,髄膜,脳血管系についてその概要を講義し,最後に各領域を結ぶ主要な神経回路(伝導路)について運動系および感覚系に分けて講義する
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脳実習:神経解剖学講義で学んだ内容を本実習で確認する
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- (令和2年度 講義シラバスより)
自習にオススメの教材、動画
- Netter’s Anatomy Dissections (Youtube 動画)
わかりやすいので実習を行う前の予習にオススメです。ただ実習と手順が違う箇所も多いので、その点は注意 - ヒューマン・アナトミー・アトラス
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神戸大学医学部解剖学教室の歴史
旧解剖学第一講座教授 山鳥 崇
旧解剖学第二講座教授 井出千束
旧神経発生学分野教授 寺島俊雄 加筆
0. はじめに
日本解剖学会は,平成7年に学会設立100周年を記念として国内の大学(研究所を含む)の解剖学教室史を編纂し出版した(日本解剖学会百周年記念事業実行委員会・記念出版委員会・教室史編集委員会編集:日本解剖学会教室史 平成7年4月1日刊行)。およそ400ページにも及ぶ大著であるが,神戸大学医学部については旧解剖学第一講座教授・山鳥崇先生と旧解剖学第二講座教授・井出千束先生による詳細を極めた記述がある(同書283~286ページ)。神戸大学医学部はその後,大学院医学系研究科に改組されるのに伴い,解剖学第一講座と第二講座はそれぞれ脳科学講座神経発生学分野と分子脳科学分野になった。さらに平成19年より脳科学講座は生理学・細胞生物学講座と名称変更した。この間,山鳥教授は学部長として震災後の復旧に尽くされた後に,定年退官され,姫路獨協大学に転出された。また井出教授は,平成6年10月に京都大学に転出された。そして山鳥教授の後任として平成9年7月に東京都神経科学総合研究所より寺島俊雄研究員が,また井出教授の後任として京都府立医大より岡村均助教授が教授として着任した。岡村教授は神戸大学在任中に哺乳類の時刻を告げるmPer時計遺伝子群を見つけ,時間生物学の分野にて大きな貢献をなし,平成19年春に紫綬褒章を受賞された。岡村教授は平成19年5月に京都大学大学院に転出した。一方,神戸医大・神戸大学を通じて37年間の間,解剖学教室を主宰された武田創名誉教授は平成20年2月9日に逝去された(享年91歳)。このように教室史を編纂した平成7年以後も解剖学両講座はそれぞれ歩みをとどめることはない。山鳥教授,井出教授の筆による教室史に平成7年以後の解剖学教室の歴史を加筆することにより,後世の神戸大学ゆかりの人々に往時を偲ぶよすがとしたい。加筆部分はまだまだ少ないが,折りをみて細々と書き加えていくつもりである。(寺島)
1.沿革
神戸大学医学部のそもそもの淵源は明治2年に設立された兵庫県立神戸病院及ぴ神戸医学校に発する。この時解剖学は米国人医師ベリーによって教えられたという記録がある。しかしながら神戸医学校は明治21年に県の財政難を理由に廃校となり、県立神戸病院のみが存続して、今日の医学部附属病院となっている。
さて第二次世界大戦中再ぴ県立神戸病院を母体にした医学校設立の機運が高まり、昭和19年1月28日に兵庫県立医学専門学校が設立された。この時京都府立医大の勝義孝が教授として神戸へ来て、助手武田創と共に解剖学教室の創設にあたった。また組織学はやはり京都府立医大の教授であった島田吉三郎が講師となってその講義を担当した。
しかし実習は昭和20年度から開始された。解剖体は当初京都府立医大のものが移送されて行われたが、間もなく、神戸で集められるようになった。当時神戸はしばしば激しい空襲の脅威にさらされていたが、それでもl日おきぐらいに講義、実習が行われていたという。しかし3月17日の空襲で病院が大被害を受け、さらに6月5日には遂に大学の鉄筋コンクリートの校舎の屋上にも焼夷弾が落ちて、天井に孔が開けられた。
昭和20年8月15日、日本は無条件降伏して戦いは終わったが、講義は続けられた。しかし翌昭和21年度から兵庫医専は医科大学に昇格することが決り、それまでの医専の学生はそのまま医専に止まるか、あるいは医大に編入されることになった。そして医大の予科が兵庫県篠山町の篠山連隊跡に設けられ、授業が開始された。また医専の授業はそのまま神戸において続けられた。この時講師となっていた武田創(たけだはじむ)が兵庫医科大学の教授に昇任し、新しく解剖学教室の責任者になった。また新たに岡田徳一が講師として着任し、講義を開始した。大学昇格l年後の昭和22年4月、初めての助手として鈴木信男が採用された。また、10月には恒光兼介が助手として着任した。この二人は主に組織学実習のための標本作成を行ったようである。またこの年は医大の一回生に対する本科の講義が開始された年でもある。この時の教育スタッフは教授が武田創、岡田徳一の二人、助手が鈴木、恒光の二人、それに島田講師という構成であった。
昭和27年4月から旧制兵庫県立医科大学は新制大学となり、名称を兵庫県立神戸医科大学と改めた。大学昇格以来の構成員の念願であった神戸の名をはじめて大学の名とすることが出来るようになったわけである。この時の解剖学教室の構成員は、教授武田創、助教授恒光兼介、講師安藤博之、助手薗民也、横山宣男で、ほとんどが京都府立医大の出身者であった。ただ横山宜男助手のみが兵庫医専第3回(最終回)の卒業生であった。
この頃から教室の研究方向は中枢神経系の比較解割学ということにほぼ定まった。また教室へ入って来る研究生も増え始めた。しかしまだ第二講座はなく肉眼解割学と神経解剖学は武田教授が、組織学は恒光助教授が分担して、学生に対する講義と実習が行われていた。また武田教授と横山助手を中心にした人類学的な研究も活発に行われていた。
昭和28年の10月からは、新医大の第一回卒業生である中村和成が助手として解剖学講座に加わった。また昭和30年からは第二講座が設置され、三重医大の教授であった岡本道雄が兼任となった。その後一時第一講座の恒光助教授が第二講座の教授になったが、間もなく岡本道雄が専任教授として来神し、本格的な教室作りを行った。そして第二講座は主に組織学の講義・実習を分担することになった。しかし岡本は昭和34年京都大学へ去り、それ以後はしばらく溝口史郎助教授が教室を統括した。この前後から第一解剖学講座ではそれまでの助手、講師が相次いで教室を去り、それに代わって神戸医大の卒業生である岡本暢夫、松川善弥等が助手として加わるなど、教室員の新旧交代が行われ始めるようになった。
昭和33年からは神戸医科大学に大学院が設置された。この頃から多くの卒業生が大学院生として解剖学教室に入るようになった。またこの頃から神戸医大の国立移管の話が持ち上がるようになり、遂に昭和39年4月から国立移管すなわち神戸大学医学部への移管が開始され、昭和42年に終了した。
移管後はそれまでの建物の改築が開始された。すなわち昭和44年に新病棟が完成した。また昭和51年2月には基礎学舎の第1期工事分が完成し、昭和52年3月には第2期工事分も完成竣工した。このため解剖学講座は両講座とも新しい研究棟に移った。さらに昭和54年3月には第3期工事分が完成し、基礎教室はすべて新しい研究棟に移ることになった。また第2期工事の完成と共に解剖実習室、組織実習室共によりよく整備されたものとなり、今日に至っている。第一講座では、昭和55年3月に35年間教授を勤めた武田創が退官し、同10月から山鳥崇がその後を継いで教授となった。また第二講座では、昭和43年に溝口史郎が教授に就任し平成元年に定年退宮するまで21年間勤めた。そして平成2年から井出千束が教授となったが、平成6年l0月に京都大学へ転出した。
2.教育、研究の推移、特色
■第一解剖学講座
第一解剖学講座は、昭和30年に第二解剖学講座が出来るまでは解剖学のすべて、すなわち肉眼解剖学、神経解剖学、組織学、発生学を受け持って教育にあたっていた。肉眼解剖学は主に武田創教授、岡田徳一教授が受け持った。また神経解剖学は武田教授が、組織学は恒光助教授が、また発生学は武田教授が受け持っていた。また研究方向は開設当初は人類学、組織化学が京都府立医大からの継続として行われていたが、次第に神経解剖学のみに絞られるようになった。神経解剖学の中でも神戸医科大学時代は、脳内の核の大きさ、形態、発生を中心にした比較解剖学が研究の本流であった。その中でも武田教授の興味は次第に小脳に集中され、各種動物やヒトにおける小脳核の発達や形態が、定量的に研究された。また小脳活樹や皮質の形態や形態発生がよく研究され、形態学的な小脳の比較解剖学のメッカとなった。
しかしNauta‐Gygax法の発表以来中村和成助教授や山鳥崇講師によって、中枢神経系における線維結合を変性線維の鍍銀法によって観察し、決定するいわゆる実験解剖学的な研究方法が導入され、医科大学時代の後期から医学部の前期にかけて、この方法による研究が教室における主流となった。また第二講座が開設されて以来、組織学と発生学の講義・実習は第二講座で行われるようになり、第一講座は肉眼解割学の授業と、神経解剖学の授業と研究に専念するようになった。以後今日に至るまで教育の分担課目に関するこの基本的な路線に変化はない。
山鳥は昭和37年から39年にかけて西独フライプルグ大学およぴニューヨーク州立大学バッファロー校に留学し、フライプルグでアグドウールのブロック鍍銀法およぴバッファローで電顕標本製作法の技術を習得して帰国したが、まもなく昭和42年から弘前大学へ転出した。また中村はパリ大学へ留学し、帰国後次第に実験奇形学あるいは先天異常学に研究の中心を移すようになった。しかし昭和51年から島根医大へ転出した。
昭和50年代からの第一解剖学講座は次第に変性神経線維の鍍銀法以外の新しい方法、すなわちHRP法、オートラジオグラフ法(梅谷)、蛍光色素法(山鳥)による神経線維結合の研究が、小脳(梅谷)や視覚系(山鳥)を中心にすすめられた。武田の小脳核の研究は、梅谷に引き継がれた。梅谷は1976(昭和51)年に助手として採用され、1977(昭和52)年講師、さらに1982(昭和57)年に助教授に昇任した。梅谷はビオサイチン、放射性アミノ酸、ワサビ過酸化酵素などのトレーサーを用いて小脳核と前庭神経核との結合を詳細に研究した。その後、1998(平成10)年3月、梅谷は医療行政の分野に転じた。また山鳥教授と杉岡助手により【14C】2‐DG法による脳内活動部位の検索が条件反応時や学習時等のラットを用いて行われた(山鳥、杉岡)。線維結合の機能状態による可塑性の研究を行うと共に、さらに脳内の活動時にグルコースのとり込みと同時に変化する種々の活性物質の動きを分子的なレベルで追跡する研究を行った。この研究は、現在多くの研究者が注目している情動系の脳内回路を明らかにすることを目的としたもので、当時としては極めて先駆的な試みであった。さらに弘前大学在任時より開発していた山鳥式脳室鏡(ファイバースコープ)に改良を加え、脳室下器官や脈絡叢の研究を行った。また山鳥は多くの外国人留学生を教室に迎え入れ、蛍光色素を用いた多重標識法による網膜神経節細胞の側枝分枝の研究を行った。その外国人留学生の一人董凱は助手に採用された。山鳥崇は、阪神淡路大震災の際に危機に陥った医学部を、医学部長として陣頭に立って救った。山鳥は1996(平成8)年3月に定年退職し、姫路獨協大学に転出した。
およそ1年半ほどの空白をおいて、1997(平成9)年7月より東京都神経科学総合研究所の寺島俊雄研究員が、山鳥の後任として教授となり現在に至っている。寺島は、大脳皮質形成の形態的、分子的基盤を明らかにすることを教室のテーマとして掲げている。2001(平成13)年4月、部局化に伴い、解剖学第1講座は脳科学講座(神経発生学分野)として再スタートを切った。現在の陣容は、教員として寺島俊雄教授、吉川知志助教,勝山裕助教の3名、技術員として薛富義、崎浜吉昭の3名、事務補助員として増瀬恵である。
■第二解剖学講座
解剖学第二講座は昭和30年4月に設置され、同年10月から三重県立医科大学の教授であった岡本道雄教授が兼任し、組織学の教育を担当した。岡本はその後、昭和33年にアメリカに留学し、中枢神経の組織培養を導入した。一方、昭和31年から講師となっていた岡田弘三郎は、神経破壊実験を用いたオリーブ脊髄路の研究を行った。昭和33年京都大学から溝口史郎が助教授として着任して、組織学に加えて発生学を担当した。研究としては脳幹を中心とする錐体外路系の細胞構築や線維連絡をテーマとした。また昭和34年小川和朗が、アメリカから酵素組織化学の手法を導入して研究を始めた。この創設期から昭和40年にかけては、その他に腕神経叢の比較研究、小脳プルキンエ細胞の毒性実験、さらに小脳の組織培養とオートラジオグラフィーを用いた神経細胞の分化などの研究が行われた。
昭和41年一42年には助教授と大学院生が相次いで留学したため、一時教室は手薄になったが、その後胎仔の着床と子宮内膜変化、肺の発生と発達、卵巣の微細構造、骨芽細胞の培養、神経管における神経細胞の分化などの発生学的な研究が行われた。また、大学院生の瀬口春道はオランウータンの脳幹の神経解剖学的研究を行った。昭和50年代では、ミクログリアの組織化学、神経筋接合の発生、筋紡錘の発生、内耳障害、ランゲルハンス島の発生などの研究が行われた。この間、菊井悠允技宮によって学生実習用の組織標本が精力的に整備され、高いレベルの実習標本が揃えられた。
昭和50年代後半では、講師の三木明徳がドイツのSchiebler教授の下に留学し、全胚培養の技術を導入した。この技術によって卵黄嚢の機能、ethyl nitrosourea や Vitamin A の投与による催奇形実験、あるいは dimethylsulfoxide の毒性の研究が進められた。また関節における知覚神経終末の研究も行われた。一方、溝口明講師は低分子量G蛋白質 smg p25A のモノクローン抗体を作成して、運動終末におけるシナプス小胞の開口分泌機構を研究した。
平成2年に井出千束教授が着任してからは神経の再生のメカニズム、成長円錐の微細構造、基底膜の役割などについて、また皮膚を中心とした知覚終末の形態についての研究が進められた。神経の再生について、末梢神経では、ランビエの絞輪から出る再生芽と成長円錐におけるプロテインキナーゼCやシナプトフィジンなどの小胞関連蛋白質の局在、接着因子の発現、また中枢神経については軸索伸長に対するシュワン細胞の役割を中心に研究を行っている。また三木助教授は発生において、synaptogenesis とプロテインキナーゼC の局在の関係について、溝口講師は smg p25A/Rab3A に加えてこれの調節因子である Rabphilin や RabGDI の働きについて研究を進めた。藤本助手は神経再生における bFGF の効果を調べた。このように井出教授の指導の下に教室員それぞれが自分の興味で研究を進めると同時に活発な討論によってお互いに刺激し合いながら、独創的な研究が育まれた。
3.人事(歴代教授など)
■第一解剖学講座
医学専門学校時代の教授は勝義孝である。しかし2年後には兵庫県立医科大学となって、解剖学講座が開設された。その時の教授、つまり解剖学講座あるいは第一解剖学講座の初代教授は武田創である。その後岡田徳一が約3年半武田創と共に教授を務め、解剖学講座に二教授時代があった。しかし岡田は昭和25年3月には退職し、以来新制神戸医科大学、神戸大学医学部を通じて昭和55年3月に至るまでの35年間、第一解剖学の主任教授は武田創であった。この間に助教授は恒光兼介(昭和26年9月から昭和31年l月まで)、薗民也(昭和31年2月から昭和33年3月まで)、中村和成(昭和33年4月から昭和51年3月まで)であった。
昭和55年10月から今日に至るまでの教授は山鳥崇である。山鳥は昭和32年3月に神戸医大を卒業して、1年問インターンのため神戸を離れたが、昭和33年6月から再ぴ神戸に帰って解剖学第一講座の助手となった。その後講師を経て昭和42年6月から弘前大学へ助教授として赴任し、昭和45年11月から弘前大学第一解剖学講座の教授となったが、10年間教授を勤めた後、再ぴ母校へ迎えられた。昭和57年1月以来今日に至るまで助教授は梅谷健彦が勤めている。梅谷は1976(昭和51)年に助手として採用され、1977(昭和52)年講師、さらに1982(昭和57)年に助教授に昇任した。その後、1998(平成10)年3月、梅谷は退職し,医療行政に転じ西脇・加西健康福祉事務所長などを歴任し,現在,兵庫県保健所長会長として活躍している。
第一解剖学講座(解剖学講座)開設以来の講師は、年代順に島田吉三郎、武田創、藤田武夫、岡田徳一、恒光兼介、安藤博之、菌民也、岡本揚夫、中村和成、松川善弥、山鳥崇、梅谷健彦である。医科大学時代は講師の席が置かれていたのでその数が多いが、国立になってからは講師の席は例外的にごく少数のものが認められているに過ぎないので、山鳥崇、梅谷健彦,杉岡幸三の3名のみに限られている。
また助手となった者の名を年代別に記すと、鈴木信男、恒光兼介、薗民也、安藤博之、佐藤正、山口彦司、横山宣男、人見正浩、中村和成、岡本暢夫、松川善弥、山鳥崇、佐古一穂、川崎明義、金剛博、竹田圭次、川口精司、山本卓、国仲正人、宮城嘉之、衣笠孝士、恵美裕一郎、石本喜秀、梅谷健彦、今川正樹、長谷川満、山内高圓、村部義則、杉岡幸三、中村聡子、董凱である。
さらに大学院に籍を置いた者は、小林勝、相馬猛、藤井保男、尾崎馨、福田裕、後藤芳夫、石本喜秀、衣笠孝士、恵美裕一郎、永本浩、岡本倫彦、梅谷健彦、今川正樹、長谷川満、吉田清二、中村聡子、董凱、桜井丹、ハニー・ラーマン、ファリド,アハメド、曲廷瑜の22名である。この他研究生は非常に数が多いので割愛する。
■第二解剖学講座
昭和30年4月に解剖学第二講座として開講された。10月から当時三重県立医科大学教授の岡本道雄(京都大学昭和16年卒、後の京都大学総長)が当講座の教授も兼任することになった。しかし岡本が昭和32年7月から1年間アメリカに留学したために、33年2月から7月まで第一講座の助教授であった恒光兼介(京都府立医大昭和21年卒)が教授を勤めた。岡本は昭和33年7月から専任教授となった。昭和33年4月に溝口史郎(京都大学昭和24年卒、現神戸森学園理事長)が助教授として着任した。また昭和31年10月から岡田弘三郎(京都大学昭和25年卒)が講師となった。昭和34年の解剖学会会員名簿では、上記の教授、助教授、講師の他に助手は武蔵宏(京都大学昭和25年卒)、山本豊城(九州大学昭和31年卒)、上甲教俊(広島医学専門学校昭和27年卒)、小川和朗(京都大学昭和29年卒、京都大学名誉教授)となっている。また昭和37年の名簿では、助教授溝口史郎、講師武蔵宏、助手日下部有信(京都大学理学部昭和30年卒、大谷大学教授)、小泉勇(京都大学昭和25年卒)塩住光(岩手医科大学昭和36年卒)の名前がある。塩住は昭和41年講師となった。溝口史郎は昭和43年に教授となった。同年吉田宗儀(神戸医科大学昭和37年卒)が講師となった。また瀬口春道(神戸医科大学昭和40年卒)が、昭和45年大学院終了と同時に助手となった。瀬口は昭和49年助教授となり、51年に京都大学に助教授として転出した。昭和42年から52年までの助手は、瀬口聡子(神戸医科大学昭和40年卒)、西村亮一(神戸医科大学昭和38年卒)、藤田照美(神戸学院大学昭和45年卒)、椋田享(神戸医科大学昭和41年卒)、李文遠(群馬大学昭和43年卒)らが勤めた。昭和56年三木明徳が大学院終了とともに助手となり、同年8月講師、昭和60年に助教授になり現在に至っている。また藤本悦子(神戸女子薬科大学昭和51年卒)が昭和51年に助手として採用されている。また昭和59年溝口明が生化学の大学院を終了して、助手として採用され、昭和63年に講師となった。溝口史郎教授は昭和64年に定年退官し、平成2年井出千束(東京大学昭和42年卒)が教授として着任した。また、荒川昌彦(筑波大学平成元年卒)が平成2年から5年まで助手を勤めた。井出教授は平成6年4月から京都大学の併任となり、10月に神戸大学教授を退任された。
なお教室で研究を行った大学院生は次の通りである。吉田宗儀、山口吉彦、西村亮一、瀬口春道、三木明徳、阿閉泰郎、中野圭一郎、高鳥孝之、大崎登志子、廣田啓充、大森昭輝、戸祭正喜、赤木秀一郎、渋谷恭之、上原香。また技官は菊井悠允が昭和31年から、吉田一子が昭和42年から勤め現在に至っている。
4.其の他(献体状況及ぴ解剖体慰霊祭など)
神戸大学医学部は創設以来昭和40年代に至るまで、あまり解剖体に不自由することはなかった。すなわち創設初期はやや不足し、京都府立医大からの援助を仰いだこともあったようであるが、新制医科大学になってからは毎年学生2人に1体の解剖が行われていた。しかし40年代に入って一県一医大の必要性が叫ばれ、いわゆる医大の新設ラッシュを迎えるようになり、また学生定員も80名から100名に、さらに120名にと増やされるに及んで、他の大学と同じく解剖体の不足をきたすようになった。 このため篤志家を集めたグループが出来たが、その数が130名あまりになった時点で神戸大学のじぎく会が結成された。昭和50年6月のことであった。当時会長は大畑忠太郎、副会長は人位秀男であった。以後会員は毎年少しずつ増加していたが、昭和57年から58年にかけて急激に増加するようになった。これは会の運営が軌道に乗り始め会員獲得運動が活発になったこと、献体法が制定されたこと、献体者に対して文部大臣の表彰などが始まったこと、献体の精神がようやく社会に受け入れられるようになったこと等によると思われる。この頃の会長は人位秀男であった。
しかし皮肉にもこの頃から医学生が多すぎるので将来の人口滅に対して医師が多くなりすぎるのではないかと言われ始め、国立大学の定員削滅が始まった。本学においても平成元年から入学定員が100名とされ、20名の削減が行われた。このために今度は解剖体が過剰になるという間題が生じ始めた。このためのじぎく会の活動方針も三代目会長豊田喜唯のもとで、1)献体精神の徹底 2)会員の獲得、から、1)献体精神の徹底 2)会員の相互親睦と健康の維持、に変更された。また同時に平成元年度からのじぎく会の年間登録者数を200名に限定し、のじぎく会会員以外の献体はお断りするということになった。さらにまた登録会員数が4000名を越え、その実体が把握し難くなったため、今年(平成6年)に入ってから登録票の変更と共に、登録の意志の再確認を行った。平成6年5月30日現在、登録者総数4243名、うち献体者数869名、退会死亡転出者数645名、健在会員数2629名である。献体登録希望者が多いにもかかわらず、登録制限をするということは非常に不本意であるが、近畿地方の近隣諸大学にも同様の現象が生じており、遠隔地大学への移送には経済的ならぴに社会的間題を伴い、その解決方法がないため、大学自身で解決する道を選ぶしかなかった次第である。神戸大学のじぎく会は結成から10年位の間は毎年2回の総会を開いていたが、会員数があまりにも多くなったため、会場の確保、通信連絡等に種々の困難を来すようになり、現在では5月中句に年1回の総会を開くのみである。毎年300名から400名程度の会員の参加がある。会の内容は活動報告、会計報告、会員の動静報告、成願者に対する慰霊の他に、主として大学の教授による健康のための講演が行われる。また新遺族の挨拶、学生の感想発表、献体に伴う種々の疑問に対する質疑応答なども行われる。また解剖体に対する慰霊祭(解剖体慰霊祭)が、系統解剖の解剖体のみでなく、病理、法医、監察解剖等すべての解剖体に対して毎年秋(11月)に行われる。これは市内の臨済宗の禅道場である祥福寺において仏式で行われている。またこのお寺には希望者の遺骨が納めてあり、神戸市、大阪湾を見下ろせる高台の墓地には大学の舎身塔も建立されている。なお神戸大学医学部では、解剖実習をした学生全員に解剖の感想文を書かせ、それを印刷して年2回発行されているのじぎく通信と共に全ての会員に届けている。以上のような次第で、現在神戸大学医学部における解剖体は、すべて献体登録者の遺体である。このことは、学生に対して、その勉学意欲を向上させると共に、医師あるいは医学の研究者になるのだという覚悟を促す上で非常に効果がある。学生は初めて自分に対して献体された遺体を解剖することによって、社会に対する自分の責任を自覚し、自分の進路に対する不退転の決意を固めるようである。教える側もまた、解剖実習を行う度に、医学を教育する者の責務を初心に帰って自覚するのである。
平成20年3月16日作成